前々回 前回 から続く
ヨシダヒロコです。
英語関係ない話が多いと思われた方もいるやも。まず、こういう状況でわたしはこういうことをしていたよという相関をお話ししたいのと、わたしは言葉に関してとてもいやな目に沢山あっています。言葉というものはこれだけ人を傷つける、だから大事ということを言いたくて書いている部分もあります。最近積ん読のスティーヴン・キング”On Writing”が目に入ったのですが(邦題『書くことについて』)最終章は確かずっと自らの人生のモノローグでした。もちろん、すっかり忘れていたので真似たつもりはなかったのですけどね。
それに富田靖子さんが、昔のNHK『スタジオパーク』のインタビューの中で「言葉は本当に怖いです」としみじみ言っていたのを思い出します。言葉って選べば人を簡単にハッピーにできるし簡単に絶望のどん底にも突き落とせます。言葉に関わるのなら知っておいて欲しいです。
もう1つ、わたしはいわゆる4技能(読む、書く、聞く、話す)を全部やろうとしましたし、今も努力しています。多分興味あるからだろうし、すべてはお互いに関連しているとも思います。英検などでA1とかB2とかありますけど、その評価付けをしているEUのCEFR(セファールまたはセファー)が今年4技能を止めて別の言い方に変えました。それを書き出すと長くなるので別の機会にしてここにリンク貼ります。
ただし、読まれた方は好きなように参考にしたりしなかったりされればいいと思います。みんなやり方が違いますので。
(箇条書きにしたら段落の間が空けられなくなってしまいました。画像や太字で努力しましたが、読みにくかったらすいません)→直しました(2018/08/27)
理系大学院生時代のわたしと英語
英語が読めない
論文翻訳バイトができない
大学院には猛勉強で受かったが、体を壊す
昼夜逆転に苦しむ
いろんな国の留学生との交流
(言いそびれてました)大学生の頃から杉田先生のNHKラジオ「やさしいビジネス英語」
アメリカ人&日本人カップルの英語教室に短期間行く
バンドとかやって勉強に影響出まくり、ライヴ沢山聴きに行く
休学もして体調整えてみたが、中退
1.専攻は天然有機化学で、薬効のあるものなどを自然界から探したり、同じものをフラスコ中で作ったり構造を探ったりします。割と最近知ったんですけど日本のお家芸だそうで、創薬の最初のステージでしょうか。まずは研究生として浪人をやりました。ただ、タスクは他の4年生たちと大体同じです。理系だからといって求められる英語が楽なわけではなく、わたしの研究室のクラスメートたちには帰国子女で卒論を英語で書けて 、日本語能力も全く問題ないような人がいたりしました。他にもいわゆる「英語力」ならわたしが上かもしれなかったですが、学問の基礎がもうあり、日々誰に言われなくとも図書館から論文や和書の科学書借りてきて読んでいたりするような人々 もいて、内容把握で勝てるはずがありませんでした。院生になってからだったか、原書講読でやらかしていたボロボロの訳 は戒めのためにとってあります。
2.入学前に「英語得意なら論文翻訳のバイトが」という話もありましたが、わたしのレベルが低すぎました。複数論文を調べ、紹介したいお題を当時はスライドがまだなかったのでOHPというフィルムで投射して紹介するというのも順番で回ってきました。生化学やバイオ系が怖い、分からないと思っていたのはこの頃からで、最近数年でやっと抵抗がなくなってきました。内容が分かることは大事、とこのとき心に刻みました。
3.大学院入試は語学、化学、数学の3教科のはずでしたが、第1志望ではその年から数学がなくなりました。英語の配点高くなったラッキーという。理、薬、農学部の化学系に出願しました。学部生の時からずいぶん色々な研究室を訪問したのですが、薬学部の研究室の学生さんに麻薬成分 他が書かれたノートコピーさせてもらったり、農学部では先生にその研究室の論文を頂き、お茶の成分トン単位から取れる活性成分mg単位 という恐ろしいことが書いてありました。麻薬のところは落ちて別のところで拾ってもらえたのですが、理学部にまあまあで受かったので、農学部と薬学部の先生に辞退のお手紙を書きました。ただ睡眠5時間が続いてたので、受かった後がくっと体調が悪くなり大変でした。面接では頑張った化学ではなく外国語(ドイツ語もあったところがあったので)のみ評価されました。
4.望まないのに昼夜逆転のパターンに延々なってしまう睡眠障害 があるそうですが、その頃知られておらず治療法もありませんでした。お医者さんと保健管理センターのカウンセラーさんにお世話になりました。眠剤飲んでも夜が白々明けてしまい、それから寝てたため朝大学に行けずしんどかったです。修論のテーマが進まないことは非常にプレッシャーでした。
5.国籍で覚えているのは、インド、中国、コロンビア、スリランカ 。人生いろいろという感じでしたが、複数言語が飛び交うときもあって面白いと言えば面白かったです。研究者として来ている方もいました。コロンビアの方とは英語で会話をしていました。
6.院生の時はどうだったか忘れましたが、大学生の時に杉田先生のNHKラジオ「やさしいビジネス英語」 が始まり聞いていました。その頃、国際関係学部とかの知人でもビジネス英語の重要性を分かってなかったようです。東京時代、TOEICは多分受けていたのではというおぼろげな記憶のみです。
7.東京で1回大学の近くに引っ越しをしていて、そこでこじんまりした英会話教室に出会いました。恐らく体調要因であまり続かなかったのですが、その後こういう雰囲気のところを選んで行くようになります。
8.東京行く前からバンドもどきの準備始めてた始末で、しかもお茶の水で高いヴィンテージベースをローンで買ってしまいました。うつ病者は夜に調子が良いことあるせいか、元気がないという割には東京で集中して開かれる洋楽コンサートをかなり聴きました。日本人ミュージシャンも、Charとか木暮”Shake”武彦(レベッカの初期メンバー、ダイヤモンド☆ユカイさんともバンド組んでた)さんとか。その他ブルーノートにも1、2回行きました。英詞も書いていたけれどさすがに後で恥ずかしくて、高校以来から書きためた(日本語の)詩もろとも廃棄しました。
というわけで、大学やめてまた富山に戻ることになりました。バブル崩壊から2年ほど経過し、わたしの行く企業はなかったと思います。将来が真っ暗で捨て鉢な行動ばかり帰ってから取っていました。ただし、学校自体は皆が仲良くて楽しいことも多く、もっときちんと勉強したかったなと思います。この専攻になってよかったことは、薬のごく基礎的な知識と、天然成分は優しいといくらいわれても例を複数挙げて「それは違う!」 と言えるようになったことでしょうか。
家庭教師などバイト時代のわたしと英語(20代後半)
郷里に帰って家庭教師や塾教師(個人指導)をメインにする
YMCAの先生から1年かそこらプライベートレッスン(同日追記:偶然掲示板で知り合って、学校は通してない)
他には近くの会社でデジタル地図をトレースしたり、遠くのブラック企業の研究職をすぐ辞めたり
『通訳翻訳ジャーナル』 の記事に影響されて富士通のPCを買い、NIFTY-Serveに入る
今はない富山の翻訳・通訳グループに入ってお茶会など
Nifty翻訳フォーラムのつてで洋楽の初仕事
フェロー「Step24」(入門コース、通信講座)
DHC「英日メディカルコース」とフェローのメディカル「マスターコース」(後者は選抜試験あり)を受講(通信)
英検1級とTOEIC900を8.とあまり変わらない時期に目指し、前者はあと1点とかそこらで落ちる。TOEICは達成
トライアルにも2社くらいには受かって少し仕事していた
ブロードバンドができてよく外国人と英語チャットしたりメル友作ったり
ロンドンのロックFM”Virgin Radio”を聴き倒す
週1で主に中国人に2年ほど日本語を教えた
同業者の元夫と知り合ったのこの頃
イタリア語、スペイン語に興味をまた持ち、Eテレ(当時は教育テレビ?)を見る
吹き替えの『ER』、あと字幕の『アクターズ・スタジオ』が好きだった
イギリス短期留学から10年後に「リベンジ」でロンドンに1人旅、今度は楽しかった
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1.大学生はじめから家庭教師バイトしていて、続けるうち子供への苦手意識がなくなりました。親近感が持てる子だと、週1以上で訪問してますから親戚のお姉さん みたいな気持ち。ほぼ女の子対象に英語と理系科目を主にして、試験前は他教科もできるだけ対応するという感じでした。英語はCDを貸したり、古典や世界史で『あさきゆめみし』『ベルばら』 を貸したらマンガは「目が小さい」と言いながら読んでくれました。教える経験は自分の勉強にもすごくなります。最近個別指導が盛んですが、違う技術なのでわたしには合いません。
2.この先生はシカゴの方でしたが、年もあまり変わらず音楽の趣味も合い、話して楽しかったです。新婚の奥さんも可愛らしかった。週1くらい1時間ほどのフリートークでした。
3.Googleマップがない時代に、お役所の様々な地図を特殊なソフトでなぞってデジタル化してました。TOEICスコアも買われ、研究職+英語要員で中途入社したこともあるんですが、トルエン(シンナー) を換気もせずガロン単位で使わせるなどいろいろあってすぐに辞めることに。会社も数年前に潰れたそうです。
4.富山にまた戻ってから『通訳翻訳ジャーナル』 を書店で見かけ、パソコン通信NIFTY-Serve特集(翻訳フォーラム) に影響されました。翻訳フォーラムは後に文芸翻訳フォーラムと分離しました。Windows95 が出てデスクトップPCが普及しだした頃で、それまでも卒論書くのにPC借りたり、化学式を当時描けたのはMacだけだったのでソフトを研究室で触ったりしていましたが、初めての自分のPC で夢中になりました。フォーラムも活発でしたけど、夜になるとチャット したいと出てくる翻訳者、志望者、英語好きさんといろんなお話をしました。フォーラムにはTwitterのような、3行で言いたいことをいう3行部屋もあり、わたし含め愛好家がいました。「大オフ」 は当時飲み会だけでしたし、他にも飲み会やオフがありました。タイピングが早くなったのはチャットのおかげです。
5.これもネットから派生したのですが、意外に富山に住んでいる人がいるのでお茶でもと人を集めた方がいて、わたしも呼んでもらいました。月1でランチするという緩い会で、わたしが結婚した後にトラブルがあって会が停止してしまいました。わたしが遠くから余計なことをしたせいもあったのかもしれません。
6.7.の受講中だったと思います。わたしは音楽部屋に常駐していて、その部屋の管理人の音楽・スポーツが専門の通訳さんから振られたお仕事でした。手がけた文書のうち、新人アーティストに関する文章があって、その人がデビュー早々ビルボードトップ になったのは嬉しかったです。人気は長続きはしなかったですけど。
7.初めての通信翻訳講座だったはずです。英語のテストなどの点数が取れるのと翻訳は違う と自分でも分かっていたので、基礎からやりました。
8.両方並行したのはきつかったです。マスターコースは最後1回が直接講義です。「好感の持てる文体だが、医学の文体になっていない」 とか「調べ物をもう少しのところで諦めてしまう」 という講評を頂きました。特に後者は今でも良く覚えています。将来どうするかを考えていたかどうか、よく覚えていません。
9.英検を信じられなくなった ときでした。大阪まで2次を受けに行って、たしか1次も後1点で落ちた経験をしてからのことでした(その前に1次B判定で落ちたような記憶があります)。試験官3人中日本人試験官1人だけの発音が聞こえない のですよ。面接終えて廊下に出たらみんな言っていました。わたしは「コミュニケーション能力」で点が低く、アイコンタクトはしていたので身振りがなかった?とよく分からず、今日まで再受験する気はありません。TOEICもこれだけ取ったのでもういいやと。そもそも翻訳に関係ないし。
10.トライアルに受かった会社から無理言われたり、人の出版翻訳を夜更けまで手伝ったりを家庭教師の仕事の合間に入れていました。辞書CD-ROMも揃えつつありました。
11.メル友は今は流行らないですけど、結構ネットにはいろんな人が日本に興味を持っていて面白かったです。変な人もいました。離婚して帰ってきてからもチャットはしばらくやっていました。
12.有線を部屋に入れていた時期があって、後にインターネットでロンドンとNYのFMなど数年前まで聞いていました。Virginは選曲が非常にかっこよく、90年代に日本人リスナーは珍しかったらしいです。何年も聞いてて曲やCMをよく覚えました。今は海外配信が英国メディア全体でできなくなったらしいです。好きなDJのトークを聞きとろうと録音したり、いい曲のタイトルが分からないので歌詞をなるたけディクテーション して、昔は違法なためほぼなかった歌詞サイトで探したりしました。TOEIC上がったのはそれでかも?
13.ボランティア日本語教師講座を3ヶ月受けました。張り紙でLanguage Exchangeを募ったら、勉強する気あるのか?というアジア・中近東の人が多く来て、日本人との関わり(ごはん食べるとか遊ぶとか?)を欲していたんでしょうけど面倒なことが多く困っていました。それで、別の協会で中国人妻を教えることに。真面目にやってくれたのはいいけど、DV日本人男性には悲しいことに日本人女性に逃げられると、それなら中国人妻はどうだ?みたいな発想になる人がいるようです。あとでわたしも結婚後DVに遭ったので、富山に帰ってからかつて被害に遭った生徒さんの消息を尋ねましたが、見つかりませんでした。日本語教師は生徒さんの人生相談役になってしまう ような難しいところがあります。言語的には日本語を別の視点から見る ことができました。よく手作り餃子をもらいました。
14.(最後参照)
15.この2言語は似ているので、多少時間をずらしたのですけどやはりこんがらがりました。
16.『ER』 は二か国語放送でしたが字幕なしでは無理で、忙しくて第2シーズンまで見てたかどうか。『アクターズ・スタジオ』 は俳優の卵に聞かせる先輩の俳優さん女優さんへのインタビューです。もともとインタビューというものが大好きなわたしは、いろいろ掘り下げる司会者の話術もジョークも楽しみました。原題”Inside the Actor’s Studio”といい、なんと米国ではまだ放送しています。 一部分だけ下に貼ります。あとIMDBへのリンク。
17.19歳の時しばらくいたのはシェークスピアの故郷の地方都市、ストラットフォード・アポン・エイボン でした。ロンドンは週末ちらっと行っただけ。この旅ではロンドンのオスカー・ワイルドの住んでいた家の前まで行き、スローン・スクエアだかで店員のお姉さんと「日本サイズはえっと」と話しながらローファーを買い、まだ日本になかったかもしれないロクシタンに偶然入り、1人でパブに入ってランチしたり、ライブハウスに1人で3回行き女性が演奏に興奮して振ったペットボトルの水をかけられた上ガン無視されたり、いろいろありました。フラット型ホテルだったので小さなスーパーにも行きました。改装前のテートギャラリー、キューガーデンにも行き、自然史博物館で長々粘りましたが英語が読めなかったです。ネット知人に案内してもらったり総じていい旅でした。海外にはこれ以降行っていません。
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この時期様々なことがあり、ターニングポイントだったんだなと実感します。結婚することになり、話が二転ほどしてわたしがフリー翻訳者になり広島に行くことになりました。辞める辞めないで揉めた家庭教師事務所も契約解除しました。引っ越し前に県内の別のところで少し塾講師しました。
普通フリーになるときは二足のわらじしてて仕事が増えたところで1本化する、またはそのまま2本なんでしょうが、自分に仕事の蓄積はありませんでした。「一緒にやろうよ」という言葉を真に受け、最悪のタイミング(入院が要るほどの体調)ではしご外されたと今でも思います。
家庭教師を辞めることになったお宅ではすごく困った困ったとなりご迷惑をかけ、ボロボロになって広島から富山に帰ってきたら、受験に失敗し半ば病んでいる生徒さんもいたくらいでした。翻訳するなら富山で教えるだけ教えてきちんと幕引きして、とできたらよかったのになと思い返すこともあります。
3回と前に書きましたが、4回目、広島以降今までのことを書いて終わりにします。
~最終回に続く~