阪神大震災被災の記憶。

ヨシダヒロコです。

今朝の地震にびっくりして飛び起き、嫌な記憶を思い起こした方々、何か症状を出された方、交通障害の迷惑を被った方々、とりわけ、まだ続いているであろう淡路島にて被害を受けている方々にお見舞い申し上げます。実は、どれだけ報道されているか知りませんが、数日前に震度4程度が金沢でもあったそうです(入院中で、寝てた)。

題名ですが、なぜ、富山在住のあなたが?と思われる方もいそうですけど、20代の頃は特にあちこちライヴを聴きに遠征してました。今年辺りまた熱が復活しそうですが。

阪神大震災の日の1995/1/17は、ちょうどこのBAHO(馬呆)のライヴの日でした。院はもうやめていたのかどうか、記憶が定かではありませんが多分もう辞めていたのでしょう。前日に豊中に住む昔の友人のマンションに置いてもらいました。そこは某財閥系のソフトウェア会社の社宅でした。うっかりミスって新大阪から京都まで連れて行かれた(快速だった)ことも忘れられません。

翌朝、5:47分。ベッドに寝かせてもらっていたわたしは、揺れとそれに続く友達の悲鳴で目が覚めました。「大丈夫だった?」と声をかけられ、幸い部屋の中にはあまり割れるものもなく、ガラスが少し割れたくらいだったのですが。何しろ怖かったです。起こされたので仮眠を取ろうと思ったのですが、舟に乗ったように揺れるし。

実家にはその頃はまだ多かった公衆電話で連絡しました。当時、携帯はまだ普及してませんでしたが一般回線が死んでしまったので、結局これが最強でしたね。

朝のニュースは皆不安なのか、会社の皆さんと一緒に冗談が飛び交う中で見ました。「やっぱりこういうときに出てくるのは中間管理職やねー」とか言ってましたね、皆さん。

ライヴは当然中止になり、振替にも行かず結局幻になってしまいました。次の日帰ろうとすると、JR西日本の皆さんが一生懸命張ったであろう、窓がガムテだらけのサンダーバードが入ってきて、あまりに怖いので鈍行で6時間ほどかけて帰りました。トム・クランシーを読んでいたのですが、こんな時に北陸線の露出狂は相変わらずで(何度か遭遇してます)「頭打ち抜いたろうか」と思ったことを覚えています。

後日談。一時よく聞いたBen Harperが「震災の被害者のために募金をしたい」と言いだし、ライヴ会場で募金を集め、ギターケースに1杯のお金をふうふう言いながら自力で神戸市役所まで運んだ、という話です。

わたしたちは時に本当に弱いけれど、The Will To Live (生きる意志)というこの曲でこのエントリを締めくくりたいと思います。

(おまけ:一人の男性が自殺した友人に宛てたイラストとポエム

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