こんにちは。富山で化学を中心とする技術翻訳をしていますヨシダヒロコです。
やっと体調が治り、今日は短い校正を仕上げて納品しました。昨日のエントリで、今日は出来るだけ普通に過ごすと書いたんですが、ちょっと無理でした。
実は、今日は可愛がってもらった祖父母の3回忌でした。母の姉弟と連れ合いだけで地味に行いました。孫やひ孫は呼ばれませんでした。ちなみに、去年の3月11日は2回忌でした。Twilogで確認しました。
祖母は長いことアルツハイマーで施設に入っていました。祖父は100歳を超え、県知事に表彰状をもらうほど長生きして、101歳の1月に家で叔父一家に看取られて亡くなり、4ヶ月後に祖母がその後を追いました。祖母の葬式の時に叔父が挨拶で「2人は仲がよかった」と言っていたくらいです。なので、間を取って法事は3月なのです。
祖父母は合掌造りで有名な集落のいとこ同士で、祖父は満州に住んでいたので結婚は遅かったのですが、陸軍出身で日中戦争従軍経験があります。部下(そして中国人も)がたくさん亡くなったそうですが、家族にほとんど何も語らず戦争の本ばかり読んでいました。小卒で中尉まで出世して努力家だったそうで、同郷の恩師によるといつも軍服をぱりっと着こなしていたとか。第二次世界大戦中は習志野の情報部にいました。
戦争が終わったあと、祖父は何もない荒れ地をろくに人の手も借りず開墾して(周りに家はあんまりありません)、農業や養鶏を営みました。遊びに行くとトラクターに乗せてくれ、スイカと一緒にごろごろ揺られていったり、祖母が用意してくれているアイスクリームが本当に嬉しかったりしました。こないだ「クローズアップ現代」で話題になったアニメ”True Tears”の舞台になった街で、イチゴがよく採れます。小さい頃、いい感じに熟したイチゴが箱いっぱいに送られてきたことがありました。ちょっとピンクになっているくらいがうまい。あんなイチゴはもう食べられないでしょう。
大きくなるにつれて祖父母の家から足は遠ざかってしまったのですが、孫はみんな可愛がってもらったので、弟なんて神奈川から祖母の葬式に来ました(祖父の時は大雪だったので)。
比較的しゃんとしていた祖父に比べ、アルツハイマーになってしまった祖母のことは長いこと心の痛みでした。20代の頃に遊びに行ったら、「物忘れをする。惚けていくんだ。足もこんなに痛い」とわたしに訴えるのです。10代の頃好きだった高村光太郎の「智恵子抄」を思い出しました。
――わたしもうぢき駄目になる
涙にぬれた手に山風が冷たく触れる
わたくしは黙つて妻の姿に見入る
意識の境から最後にふり返つて
わたくしに縋(すが)る
この妻をとりもどすすべが今は世に無い
祖母は施設に入ったあとでも、しばらくは母が行くと「○○が来たんだ」と嬉しそうに話していたそうです。最後にお見舞いに行ったとき握った温かい手を忘れません。
で、長々書いてきて何が言いたいのかというと、今朝2chのまとめで、震災で奥さんやお子さんを亡くした方の叫びを読んでしまいました。いわゆる「サバイバーズ・ギルト」というやつでしょうか、医者に行くと心が楽になる薬をくれるけど、飲んでしまったら家族を失った痛みを忘れてしまう、と思ったら飲めないそうです。URLはここには書きません。
結局多少追悼番組を見て、中にはポジティブなものもあったのですが、肉親を失った方々の悲しみが1日なかなか離れてくれませんでした。
月並みなお悔やみの言葉が嫌で書かずに来たのですが、衷心からお悔やみを申し上げます。頑張れとか復興とか、生きてればいいことがあるとかわたしは言いませんから。今はゆっくり悲しみを癒やしてください。
追記:ブログ「とりあえず俺と踊ろう」より。http://psichiatra.blogspot.com/2012/02/blog-post_28.htmlブログ主のいちは先生も最近おじいさまを亡くされました(震災でではないですが)。今は産まれたばかりのサクラちゃんのことでいっぱいですが、前の方を遡ってみると、おじいさまへの思いにあふれたエントリがたくさんあります。もし肉親を亡くして悲しんでいる方がここにたどり着いたら、是非お読みになってみてください。