「虐待という迷宮」より、「被害者権力」について。

虐待という迷宮

虐待という迷宮
春秋社
これを読んで、リストカットを繰り返す人の周辺状況が想像できるようになりました。惜しむらくは、情報がちょっと古い。

引用が長いですが、だいぶ前から考えていることです。

P140より

アミティは、もともと加害者としての犯罪者、もしくは依存症である人たちの集まりである。わたしが新聞の片隅ではじめてアミティを知ったとき、「加害者における被害者性の承認」ということばが浮かんだ。どのような加害者もかつては被害者だったという視点は、わたしの思考と共鳴するものだった。

二つ目の意味は、被害者でありつづけることをやめるためである。逆説的であるが、「被害者をたっぷりやる」ことは、被害者を脱するためにこそ必要な段階なのだ。

被害者に責任はないというフレーズは、アダルト・チルドレンと共通している(引用者注:他の場所で書いてありますが、この方はアダルト・チルドレンを肯定的に捉えているようです)。つまり今の苦しみに自分は責任はないという免責性を強調している点だ。被害者というこ
とばは、このように責任がない、悪くない、正義である、正しいのは自分だ、だから主張は認められるべき、といった過程を経て、いつのまにかとほうもない権力をさえ帯びはじめるのだ。

それを「被害者権力」とわたしは呼んでいる。わたしはこの権力を嫌悪している。ときにはそのことに悲しみす>ら覚える。被害者であることの権力性は、絶対的主義の衣(ころも)をまとっており、そこに甘んじていることの安易さは、ときとしてさらなる弱者への支配に連なっていく。DVの被害者である母が子供を支配する、アルコール依存症者の妻たちの行使する独特の支配(共依存)はわかりやすいその実例である。

あと三つ目があるのですが、割愛します。

「被害者をたっぷりやる」ことはこの本の中で繰り返し述べられていることです。わたしはどうも2年強に渡ってかなりやったらしい。なので受けた扱いを、時には別の視点で整理することができるようになってきました。

それは、黙って話を聞いてくださった無名の窓口さん、見守ってくれた家族や友人のおかげです。ときにはいわゆる二次被害を受けて、泣きながら頓服を飲んだり、救急に行ったり、電話機を投げたりしました。子機は動いてはいますが、ガムテープを張ってぼろぼろです。

そして、この引用で一番強調したかったのは「被害者権力」です。散々「被害者をやって」落ち着いて来たらでいいので、考えて欲しいことです。ただし、これも強調したいのですが、その前にいやと言うほど、されたことを「話の分かる人に」愚痴って涙が涸れるほど泣いた後で(追記参照)

この本の中では明確に被害者と支持者を分けていない。大きい出来事でショックを受けた人は、刺さったとげのようなものが一生ちくちく痛むものなのではないでしょうか。それをどの程度風化できるかは、きっと人によるでしょう。支持者によってふるわれる権力のようなものもわたしは感じています。悲しいことですね。

だいぶ前から気が付いていたことなのですが、こういう風にばっちり文章にしてあったので思わず紹介。

被害者と加害者を分けるのも難しい。実際わたしは、混乱した中で人を傷つける方向に走ってしまった経験が複数回ありますし、ほかの人の経験談を読んでいてもそれは起こるものらしい。

(追記)この本が出たとき、ブログの台頭はまだありませんでした。ちょっとものによっては考えちゃうところがあります。

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